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は象徴的に地球という惑星の太古の状態を表し、それを空、大地、水という自然
によって具体的に目に見えるようにしたものである。
進歩とは具体的に体現された時間である
写真によって私の個人的な世界観を伝えようと試みた。私の作品は、それを見る
人が地球と人類の歴史の意味深い経過を追体験しながら洞察するように働きか
け、この働きかけによってインスピレーションを与え、「進歩の形而上学」という構
想に寄与しようとするものである。つまり私が何を表現したいかと言えば、美的
な、あるいは何かを学べる写真を提供する事だけが目的ではなく、世界の成り立
ちは意義のあるもので、より良く進歩することが定められているというポジティブな
世界観を伝えることも、同様に私の作品の大事な要素なのである。スペインの彫
刻家、エドゥアルド・チリーダ(1924-2002)の言葉を思い出す。
「私は宗教的人間だ。信仰に関わる問題と、私が芸術家として抱える問題は隣り
合わせである。勿論私は空間を心霊的レベルでとらえているし、これは空間にも
哲学的レベルがあるのと同じである」[6]
チリーダが自身と空間について言っていることを、私は自身と時間に置き換えて
みたい。というのも、私たち人間存在を悲劇としてしまうのは空間が限られている
ことではなく、「地球という体系」についての想像力は無限であるのに対し、この
体系内にとどまる時間が限られているという不幸な対立関係から逃れられないか
らである。更に意味のあるあらゆる思考は、必然的に「時間」という観念に根ざし
ている。進歩とは、社会のエントロピー(無秩序)が減ってゆく時間を具体的に表
現する中での変化である。誰もが、進歩に寄与する小さなユニットであるから、私
達は進歩のプロセスと結び付けられている。「方法は目的ある」という孔子の言葉
は、一つの可能性としてこう解釈できる。
写真は記録する側面と歴史記述をする側面の二つの性質を持つ。写真作品
は、撮影中にはまだ「現在」であるが、その直後に「過去」になってしまうのだか
ら。つまりどの写真も、写真として成立した後は、絶えず増え続ける歴史的な記
録となるのである。[7]
このチクルスでは、私は写真の「比較する」可能性を利用した。過ぎ去った時代
に人の手によって作られたものを撮る事により、この写真を見た人に、たとえば西
部劇映画を見た時のように、その時代に存在した風景や、その時代に支配的
だった形の構造が視覚的にも観念的にも身近なものとなる。これを私はたとえ
ば、自然の原形である巻貝を写した一連の写真で使ってみたし、また何千年も
その形をほとんど変えず今も作られた場所に残るドルメンやメンヒル、ストーン
7 -
リング・オブ・ブロッガー I,
FM 035
8 -キルクローネイ・ドルメンIV,
FM 036