Mikrofotografie japanisch - page 10

れた個々の成果を、人間が芸術と認識することによって初めて芸術にな
るのである。そして、私達がある成果を芸術と認識するのは、それが私達
の感情に訴え、思考を揺り動かす時だけ,つまり私達の中に残るのは、
芸術の神秘であり、私達の中にある不確かな何ものかである。
考え込んだ後の「後書き」
顕微鏡全般のことを考えるとき、私がとることを余儀なくされるのは覗き見
をする者のポジションである。というのも、私達の目は、ミクロの世界をも、
またマクロの世界をも正確に観察するようには作られていないのだから。
それでも物質や生物の最も小さい、あるいは最も大きい構造を覗き見る
ために、私達は顕微鏡と望遠鏡という補助手段を作り出した。
顕微鏡を通して初めての、いうなれば無垢の目で見ると、最初はまず驚
かされる。しかしこの驚きがおさまると、すぐに把握された多様な構造の
意味を分析する事が始まり、この精神が世界を整理し、見慣れたものと
し、最後には支配してしまう。すでに、プラトンの最も高名な弟子、アリス
トテレス(紀元前384-322年)は、その『形而上学』の中で、「哲学の基本
は驚きである」と言っている。この意味で、驚きは予期していなかったこと
を体験することであり、偏見を持たずに受け入れる知識の、最も重要な
源の一つである。つまり私達はたとえば顕微鏡と顕微鏡写真を使って、
その性質上私達が視覚を使って認識することが予期されていない対象、
あるいは主体を目に見えるようにするのである。
こうしてロベルト・コッホは顕微鏡を使って、結核菌等を発見し、それに
よって何百万人もの人の命を長らえさせた。しかし私達はこれに関して
一つ疑問を呈したい。何百万人もの人の寿命が20年伸びたことに対し、
自然は一体どのように応えたのか?人間は、自然の循環から切り離され
た利益追求の中で、常にその行動や思考体系の全ての中心を繁殖に
置くだろう。しかしそれは私達を取り囲む自然と均衡のとれた繁殖なのだ
ろうか?進化によって人間に与えられた視覚器官が、自然の状態では
顕微鏡のように見ることができないということには深い意味があるのだろう
か?この視覚器官は、猛禽類の視覚器官とも違う。人間の視力が達成
できる理論値が2.5であるのに対し、猛禽類は鳥の目のレンズ部分や黄
斑の構造が人間とは異なるので、視力5~10も可能である。しかしこの事
実は、猛禽類に与えられた視力が、猛禽類にとって死活にかかわる意味
を持つことに根拠づけられる。
しかし顕微鏡は人間にとって死活にかかわるほど重要ではなく、第一段
階では、人間に普通では見られない自然現象を見せて驚かせ、第二段
階として自然体系を理解し、第三段階で人間の繁殖を制限するような自
然の摂理を認識させることにより、これを回避するのに役立つ。
しかし宇宙の均衡を作り出し、この均衡を首尾一貫して保つことは、人間
に与えられている能力を超えるものであり、この世界を保つために自然
の摂理が最終的に私たちにもたらすものを待つしかないのである。
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