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「顕微鏡写真-可視の世界のか
なたにある美」展の招待状
私達にとっての顕微鏡写真の意味
ラブダ祐子にとって顕微鏡写真を撮る事は、拡大する事によって初めて
見えてくる自然の多様性と素晴らしささへの驚き、そしてまた神の存在を
感じずにはいられない自然への敬虔な気持ちの現れである。日本人で
ある彼女は幼い頃から仏教の浸透した風土に育ち、撮影のために虫を
殺すなどとても考えられず、植物の電子顕微鏡写真を撮る事に専念して
いる。モノクロの写真にこだわり、当世風の彩色を施そうなどと考えもしな
い。ラブダ祐子はじっくり、慎重に自分のテーマを消化して行く。野山を
歩き回って集めてきた無数の植物から、彼女が写真に出来るのはほん
の一握りにすぎない。したがって、1年間経ってもできた写真が片手いっ
ぱい分にも満たないことも稀ではなく、それだからこそ彼女の写真が一
枚増えるたびに、私達はささやかなお祝いをするのである。
私の場合は全く違う。私はすぐ新しい事に夢中になり、何もかも試してみ
たいという気持ちでいっぱいになり、撮影すること自体が喜びで、もともと
どんな分野にも興味があり、イコノロジー、スタイルの確立、製作者が誰
かすぐにわかるスタイルの繰り返しといった、美術史家が重きをおく点に
ついて残念ながらあまり頓着しない。私は、私と同世代の多くの写真家
がそうであるように、自分をユニヴァーサルな人間だと思っている。しかし
普遍主義者である私の作品は今の時代精神に合っているとはいえず、
作品のユニヴァーサルな部分を、この無愛想な時代の精神に犠牲にす
るよう強制されているように感じる。
顕微鏡写真は私にとって写真家としての活動の一部に過ぎない。
マンフレート・カーゲはこう言ったことがある。「非常に大まかに言えば、
目に見えないものを見えるようにすることに私は魅かれるのだ」と。この言
葉が私にそのままあてはまるわけではない。私が当時顕微鏡写真に関
心を持ったのは、偏光顕微鏡写真を使って、興味深い、いかにも私らし
い、抽象的な写真を作りたいと思ったからだった。従って私ならこう言う
だろう。「非常に大まかに言えば、顕微鏡を使って抽象的な写真を作るこ
とに魅かれたのである」と。マンフレート・カーゲが私に教えて成果があっ
たと思われるのはこれである。
顕微鏡写真は「まるで芸術」だろうか?
ラブダ祐子が「顕微鏡写真-可視の世界のかなたにある美」展のカタログ
に献詞を添えて友人に送ったところ、すぐに電話が入ったが、それは次
のような熱狂的な言葉で始まった。
「祐子、素晴らしい写真だわ、まるで芸術のようね」と。
写真集をこんなに喜んでもらったことは今までなかったが、「まるで芸術
のようね」という言葉には考えさせられた。
昔からある、写真は芸術か?という疑問を突き付けられたように感じたの
である。常々写真と芸術という問題に直面し、このテーマに関する無数
の論文を読んできた私達も、ある写真が芸術なのか、あるいは「ただの
写真」なのかの判断にはいつも迷う。
展覧会カタログでは、著名なSF作家のヘルベルト・W ・フランケが、『芸
術と科学の境界領域で―マンフレート・P・カーゲの写真作品』と題した興
味深い論文の中で意見を述べている。フランケは、数ページを費やして
から、まさに私達にとっていま非常に関心のある、「顕微鏡写真は芸術
か、あるいは記録か?」というテーマを取り上げている。フランケによれば、
地上にある全てのものをほんのわずかの範疇に分類することはできない