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う形で後世に残そうと並々ならぬ尽力をされているD r.イェンス・エアハ
ルト氏は、この展覧会プロジェクトに投資されたことを誇りに思われること
だろう。
色彩と光に陶酔して
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年代の終わりのことだが私はある学術誌に掲載されたマンフレート・
カーゲの論文を読み、透過偏光顕微鏡で結晶の融解を写した彼の仕事
に注目し、すぐカーゲに手紙を書いた。きっと無意識のうちに、カーゲが
彼の「魔女の実験室」で作り出した結晶のカラー写真が私の中に呼び起
こした感激を、彼に知ってほしいと思ったのだろう。また私も自分の顕微
鏡を使って色彩に陶酔したかったので、難解な記号を持つ化学物質
を、いったいどこで入手できるのか教えていただきたいというのも手紙を
書いた理由であった。
この手紙に対し、マンフレート・カーゲは忘れがたい態度で応えてくれ
た。全く見ず知らずの私に、カーゲからの小包が届いたのはわずか1週
間後のことだった。小包を開けると暗褐色の小瓶が何本か入っていた。
ゲーテの『ファウスト』の一節を彷彿させるものだった。
「なぜ私の視線はそこに止まってしまうのだろう?あのフラスコは目にとっ
て磁石なのだろうか?なぜ急に好ましく明るくなったのだろう。ちょうど夜
の森を歩いているときに月の光が私の周りにたわむれるように。お前に
挨拶を送る、私のたった一つの錬金術のフラスコよ。お前を敬虔な気持
ちで手元に下ろそう。お前の中に入っている人間の機知と技法を、私は
敬う」。
何週間も私は顕微鏡のそばを離れられなかったが、結膜炎の痛みでこ
の憑かれたような状態はさしあたり終わりを告げた。しかし、せっかく目の
前に現れた魔法のような画像をフィルムに定着させることは、当時私の
顕微鏡の性能では出来なかった。そこで、当時レーバクーゼンのバイエ
ル社で顕微鏡による分析検査のチーフを務めていた友人のハンス・パッ
ラに電話をかけた。パッラは、私にはまず「まともな顕微鏡」が必要だとい
うことで、少なくとも価格は高性能を約束してくれる顕微鏡をその場で紹
介してくれた。
これがZeiss社のU ltraphot顕微鏡だった。これを使えば9×12インチの
カラー・スライドだってできる、と言われたが、これこそ私のやりたかったこ
とだし、それでなくても、私が1979年に立ち上げたクリーン技術を専門と
する小さな会社、Clear&Cleanでは、高性能な顕微鏡を研究用に至急
必要としていたのだった。
顕微鏡を買イに行く、でもウィンドブレーカーは着て行かないで!
ある秋の曇り空の下ハンブルクに出かけた折、通りすがりに偶然「Carl
ZeissStiftung,N iederlassungH am burg(カール・ツァイス財団ハンブ
ルク支社)と書かれた看板を見かけた。それを見た瞬間、顕微鏡がほし
いという気持ちが再燃し、ツァイス社に寄ってみようと決めた。もっともこ
の日の私の服装は、カール・ツァイス財団のような歴史ある会社を訪問
するのにぴったりとは言い難かったが。
ツァイス顕微鏡の資料がほしいという希望を伝えると、ブロンドの受付嬢
は、「あちらにおかけになってしばらくお待ちください」と言って、私を離
れたところにある椅子に座らせ、隣室に姿を消した。15分ほど待たされ、